会報No.55

 ●巻頭文

閩北の茶を訪ねて  第二十四回研究会報告
                       高橋忠彦
 
 茶の湯文化学会の第24回研究会として、九月二十一日より九月二十五日まで、中国福建省北部(閩北)を巡る団体旅行が、谷会長を団長として催行された。
 九月二十一日の朝早く、総勢二十三名(添乗員二名を含む)は、関空と成田より別に出発し、一時過ぎに厦門空港で合流した。夜の十時頃に飛行機で武夷山に赴く予定であったので、午後の時間を利用して、厦門随一の名所鼓浪嶼(コロンス)の島巡りを行った。ここは清末に厦門が開港されてから、共同租界が設けられた島で、今は閑静な文教地区であり、洋館建築の多く残る観光地でもある。鼓浪石、菽荘花園などの名所を電動カートに乗って見物したが、特にピアノ博物館は、展示物が充実しており、住民の子供たちの九割がピアノを習っている土地ならではである。その後、市内の金韻香という茶荘に立ち寄ったが、古い製茶道具の展示があり、工夫茶の実演をしてもらった。厦門は閩南地区に属すので、販売されている茶も安渓の鉄観音が多く、後に訪れた武夷岩茶中心の閩北地区とは異なっている。ちなみに鉄観音は緑色で堅く丸まっており、黒くて細長い(それだけに壊れやすい)武夷茶とは、外見も風味も全く別物である。今回は短い時間とはいえ、閩南にも立ち寄れたので、福建の烏龍茶の全体像をかいま見ることができたといえよう。飛行機の出発がやや遅れたため、武夷山のホテル武夷山荘に到着して投宿したのは真夜中になった。
 九月二十二日から、いよいよ閩北巡りである。行政区でいえば、武夷山市と、その南の建陽市、その東よりの建甌市をまわったのである。この日は、武夷山荘を早々に発って昼には建甌市の家興大酒店にチェックインした。ホテルの部屋に工夫茶の道具一式と武夷岩茶が揃えてあったのを見て、なるほど茶所だと感心した。午後には、現地の専門家呉金泉氏に同行してもらい、町の東の鳳凰山麓に在る北苑遺跡に向かった。北苑は五代に始まる茶園で、宋の御茶園として知られたところである。鳳凰が翼を広げたような山の南麓に、今でも茶畑が広がっている。主に水仙、肉桂、矮脚烏龍などが栽培され、現在は「北苑御茶」をブランドとしている。北苑の最初の持ち主であった五代の閩の趙廷暉が「茶神」としてまつられる廟(鳳翼廟)を見学した。他に古い井戸や石碑などが点在しているが、時間の関係で見学はできなかった。その後、東峰鎮の小さな製茶工場を見学し、試飲もさせてもらった。本場で飲む烏龍茶は格別であったが、中秋節が近い時期でもあり、お茶請けに出してもらった福建風のパイ皮の月餅も美味であった。閩南では茶壺(ティーポット)を使って茶葉をよくむらすのだが、ここ閩北では、蓋つき茶碗を使って茶を淹れていた。茶葉の形の違いによるのであろう。
 九月二十三日の朝、建陽に向かったが、車内で会長から建盞に関するレクチャーをいただいた。途中で建陽市博物館副館長の羅冠群氏に同乗願い、宋代に大量の建盞(天目茶碗)を生産した水吉窯址に向かった。今回見学したのは、登り窯の遺跡の大路後門窯址と、陶片が廃棄された跡地の芦花坪窯址である。前者は、本来、全長が135mもある巨大な窯で、今は六十mほど発掘されて屋根を付けて保存公開されている。後者は、草むらの中にむき出しになった丘全体が、廃棄された陶片に覆われている。壊れた建盞があちこちに転がり、どのような形でさやに入れて焼かれたか、リアルに想像でき、宋代の昔を今に忍ぶことができる。午後には市内の建陽市博物館を訪問した。建陽市文化館の三階が博物館になっており、古代からの文物が展示されているが、出土した建盞や、新品の建盞を即売していた。この博物館は、現状ではやや粗末な感じを免れないが、近く改装されるという。
 夕方に武夷山市に戻り、武夷山荘に再び投宿した。武夷山は、世界遺産に指定されてから、ホテルも林立しているが、風景区に在るホテルは、歴史のある武夷山荘が唯一のものである。大王峰の威容を望み、最高のロケーションを擁し、ホテルとして別格の感がある。武夷山荘の会議室で、五時頃より、武夷山市岩上茶葉科学研究所所長の劉国英氏をお招きし、交流会を開いた。通訳は九州東海大学の顧文氏にお願いした。岩上茶葉科学研究所は1998年に成立し、岩茶の品種開発、設備の開発、品質向上の研究を目的とする「試験基地」であり、実績を上げてきているという。(「岩茶」とは、もともとは、武夷山の岩山の上に生じる上等な茶のことであるが、今では武夷山産の烏龍茶の別名として用いられている。上述したように、鉄観音のような昨今一般的な烏龍茶とは異なる特徴を持つ。)まず谷会長がお話しされ、当学会の紹介から始まり、茶の湯の歴史を通観し、その将来の変化、あるべき姿を考えるためには、広く世界の茶文化を知ることが大切で、このような交流をその第一歩としたいとの提言がなされた。
 次ぎに劉国英氏が、以下のようなお話しをされた。武夷山は丹霞地区という特殊な地理条件を生かし、烏龍茶の始まりである武夷岩茶と、紅茶の始まりである正山小種(ラプサン・スーチョン)の両者を生み出した。この岩茶の製造技術は、中国の文化遺産に指定されているが、今後は世界遺産の非物質文化遺産に指定されるよう申請中である。武夷岩茶の歴史は三百年ほどしかないが、製茶技術としては最も完備したものである。なぜなら、それぞれの茶樹の香りとうまみを引き出すような技術は他の地域には無い。武夷茶はそのような個性のある品種が、名欉と呼ばれ、特に大紅袍、肉桂、水仙、鉄観音、白鶏冠などが知られる。歴史上の品種は千を超すが、今も二百種類以上の茶樹品種が栽培されている。武夷茶の個性である「岩韻」は、それぞれの茶樹の環境がもたらすもので、場所により味が異なってくる。環境が良いため、農薬、微生物、金属などの含有量が中国で最も少ない優れた茶が生み出されている。製造工程の特徴は、「做青」「揺青」によって半発酵をうながすことと、炭火焙煎により、熟香を生み出すことである。この二点は武夷茶の発明である。このように、茶樹品種・地理環境・製茶技術の三者が、武夷茶にとって重要なのである。
 このあと、参会者からの質問に劉氏が答えられ、岩茶には、火入れの強い熟香型と、弱い清香型があること、前者の方が品質が安定し、保存しやすいことなどの説明をいただいた。たしかに現代の烏龍茶は、台湾であれ、福建であれ、焙煎の弱い緑色のものが主流となっており、黒い武夷茶は古くからの熟香の孤塁を守っている感がある。それ故、武夷茶においては、年を経たもの(陳年茶)が貴ばれているのである。といっても、普洱茶のように何十年というのではなく、数年の期間であるが。
 夜の宴会は、劉氏を囲んで土地のごちそうをいただいたが、紅茶の炊き込みご飯など、茶を使用した料理がいくつか出たのがおもしろかった。この時の料理以外も、福建での食事はすべておいしく、たまに辛いものも混じってはいたが、野菜や魚の持ち味を生かし、日本人にあうような味付けであった。多くの場合、スープが二、三皿も出てきたが、福建料理の特徴であろうか。
 九月二十四日の午前は、武夷山観光のハイライトである九曲渓下りである。星村(ここをもっと奥に行くと、正山小種で有名な桐木がある)の乗り場から、三台の筏に分乗して川下りに出発した。川は浅いところは五十cm、深いところは36mとの説明があったが、川底の石が透けて見えるようなところが多かった。孟宗竹を並べて作った筏を、二人の船頭が竿で操って、下っていくのだが、途中見える名岩奇岩の解説もしてくれる。元の御茶園が川岸に見えたが、今は茶館が建てられていた。武夷茶の缶によく描かれている玉女峰と、武夷山荘の近くの大王峰が見えてくると、終点である。上陸して、武夷宮という土産物街を通って山荘に戻った。
 午後には大紅袍の古茶樹があることで知られる九龍窠に赴く。清流に沿って石畳の道を登っていくと、両側はほぼすべて絶壁であり、谷間の茶園には、さまざまな品種の茶が育成されている。晩甘亭、不見天、九龍澗などの名所をたどってしばらく進むと、右手の崖の中腹に、六本の大紅袍が見えてきた。もとは岩棚に自然に生えていたのであろうが、今は一部石垣で補強してある。この大紅袍を挿し木で増やし、二代目、三代目の大紅袍が栽培されている結果、今では大紅袍の茶を容易に飲めるようになったのである。太陽光線が一日の一時期しか当たらず、岩の上からの水流を受けるなどの自然条件が、大紅袍を生み出したともいわれるが、それを目で確かめることができた。九龍窠を発って、空港へ向かう途中、劉国英氏の岩上茶葉科学研究所に立ち寄り、岩茶を振る舞われた。茶のいれ方は、東峰鎮とほぼ同じである。ここでは、国が各茶工場に配布する武夷岩茶の見本というものを見せてもらった。たとえば肉桂の特級は、この程度の味と香りという基準を定めるものである。このようにして品質管理を厳しく行っているのだそうだ。武夷山空港からの帰路は、来るときほど遅くなかったため、九時半には厦門のホテル航空金雁酒店に到着できた。
 最終日九月二十五日は、厦門空港で、再び関空組と成田組に分かれ、それぞれ帰国の途についた。大きな事故も無くスケジュールをこなすことができたのが何よりであったが、それも参加者の協力のおかげであった。天候にも恵まれ、雨にはほとんど降られなかったし、福建を台風が襲った直後であったが、その影響も無く、今回の研究会は、いろいろな意味で幸運であったと思う。
 
 
●例  会

東京例会
(平成十八年九月十六日)
 
「唐物香合についてー漆工品を中心にー」               
多比羅菜美子
 茶の湯の香合には大きく分けて、やきものの香合と木竹器や漆器の香合があり、漆器にはさらに蒔絵香合といわゆる唐物の彫漆や螺鈿の香合がある。今発表では、茶の湯の香合の中でも、特に唐物の漆香合に注目したい。
 茶会記が成立した天文年間(一五四〇年〜)頃、会記に香合がみられるようになるのは、『松屋会記』の天文十一年(一五四二)四月八日の「立布袋香合」が初出である。これは恐らく唐物の堆朱の香合と考えられ、以後「布袋」の香合は会記に幾度となく登場する。いわゆる侘び茶において唐物の彫漆の香合が用いられるのは、東山殿時代の影響といわれる。しかしながら、わが国における長い唐物漆器の受容の歴史からみると、侘び茶の香合は、鎌倉時代以来の豊かな唐物の蓄積の中から、ごく限られたものが選び出されていることが分かった。その最も代表的な存在が堆朱布袋香合である。
 唐物漆器は、鎌倉時代以降江戸時代に至るまで、わが国に将来され続けてきた。伝世している作品は、宗時代頃の作品から清時代頃の作品まで、質量ともに豊富である。これらは、寺院や上級階級の什器として用いられたようで、盆、食籠、卓、合子など器種は多岐にわたっている。また、技法も文様のない無文の漆器から、螺鈿、彫漆など多様であるが、特に彫漆は宋時代以降中国において中心的な漆芸技法であり、わが国に将来された数も多い。唐物漆器は、鎌倉時代から伝わってきた作品に加えて、それ以降も引き続き将来されたため、室町時代頃にはすでに国内の唐物漆器の蓄積は豊富であったようで、『君台観左右帳記』では、彫漆を漆の塗り廻しの様子や色、文様の彫り方の違いなどに着目して、約十二種類にもなる精細な分類を行うほどに唐物漆器の鑑賞は進んでいた。その中で高い評価を得ていたのが、元時代の彫漆の工人、張成、楊茂、戚壽らである。彼らのことは『君台観左右帳記』に特筆されているほか、『康富記』や『蔭涼軒目録』などにもその名がみえるため、よく知られていたことがうかがわれる。
 さて、天文年間に侘び茶で用いられた「布袋香合」も、『君台観左右帳記』以来の彫漆器の評価に基づいて選び出されたものであったようだ。なぜなら、『山上宗二記』には、
   名物也、此外堅布袋、居布袋とて昔東山殿御代に在り、其後方方々にて失候、残処々可有候、其内堅布袋、堺天王寺屋宗及に不破之香炉に置合て在之、何もツイ朱ノ手なり、ひしの盆ハ堆紅、此内堅布袋か上作名物也、布袋香箱ハ作張盛、ひしの盆ハようも(楊茂)作、堅布袋上十、居布袋下十、
と記されていて、張成作の布袋香合が、当時すでに亡失していたことがわかる。また、天文十九年(一五五〇)十一月十六日『天王寺屋会記』(宗達他会記)に、
   香箱出(前池永宗雲ノ也)、面地ハかうし、すミをたてて、ほてい、わきハわちかへ也、作者ハみえす候、というように布袋香合の作者が不明であったことを特に気にした様子の記事がみられるほか、元和元年(一六一五)十月二十日『天王寺屋会記』(宗凡他会記)には、盆の説明であるが、
   底ノ脇二張成造ト堀テアリ、此文世上二アル香箱・盆ナト二アルヨリハ字大二アリタゾ(後略)
といった記述がみられ、当時の人々が張成作の彫漆器を珍重していた様子がうかがえる。
 これらのことから堆朱布袋香合は、張成作を最上とする『君台観左右帳記』以来の彫漆器の評価の影響をうけて、侘び茶の香合として選び出されたものであることがわかった。しかしながら、侘び茶に用いられた唐物漆器の香合は、会記には布袋のほかいくつかの種類が記されるのみであり、鎌倉時代以来の豊かな唐物漆器の蓄積からすれば、ごく一部が用いられたにすぎない。
 さらに、堆朱の布袋香合が用いられ続けられたことが茶会記からうかがわれ、伝世している布袋香合にも明代中頃からそれ以降の制作を思わせる作品が多く、さらに螺鈿の布袋香合もみられることから、これらは注文によるものかと思われた。
 また、江戸時代十七世紀後半より、小堀遠州の茶会などで青貝の香合が多用され、同時代頃のいわゆる今渡りのものを用いる風潮がでてきたこととも関係があるようであり、今後の課題としたい。

 
「明治時代の茶の湯の普及についてースウエ―デンを例にー」
                     トーマス・エクホルム
 
 スウエーデンに茶の湯が紹介されたのは、明治時代から昭和時代にかけて、三人のスウエーデンん人によって行われた。その三人はHjalmar Stolpe(ヒヤルマー・ストルペ)・Fredrik Martins(フレドリク・マーテインス)・I da Trotzig(イーダ・トロチッヒ)である。その三人の日本との関係や茶の湯を紹介する理由などは、三人それぞれ違っている。
 ストルペは一八八四年の約二週間、日本の物を収集した。その数は数百点にのぼり、うち一五〇点ほどが茶の湯の道具や衣服であった。彼が京都で茶の湯の稽古に参加した際、その経験を大変喜び、一〇年後に書かれた資料には「見たことを馬鹿にすべきではなく、まことに興味深い経験であった。意外ないれ方でいれたお茶を飲んでいた。」と書かれている。翌年の一八八五年、スウエーデンニ戻ったストルペは、蒐集したものを民俗学博物館に展示した。館内には茶室が作られ、人形に着物を着せて展示されたが、スウエーデン製の人形では気に入らず、人形も日本から取り寄せた。一九〇〇年頃、民俗学博物館の新しい館長にストルペが選ばれた。そしてこのとき選ばれなかったのがマーテインスである。 
 マーテインスは若い頃から美術を学び、有力な研究者と目された。マーテインス自身が来日したという記述は見つかっていない。それでも日本の美術品や茶の湯の道具を集め、スウエーデン販売した。一九〇六年と一九二四年、イエ―テボリにあるロースカ美術館に中国と日本の美術品を収めていた。これらの美術品は恐らくヨーロッパ内で手に入れたものと思われる。
 イーダ・トロチツヒの夫へルマンは、一八五七年に初めて来日し、一八五九年から住み始めた。彼は一九一九年に亡くなるまでの約六〇年間日本で過ごした。一八八八年にスウエーデンに戻った際、姪であるイーダと結婚する。イーダは約三〇年へルマンと共に暮らし、一〇年間は神戸で茶の湯と生け花を学んだ。一九一一年スウエーデンに帰国した際に『Cha-no-yu:Japanernas teceremoni』(茶の湯:日本人の茶道)を出版した。この中には茶の湯の歴史・点前・記念日・茶会の流れなどについて書かれている。この本が出版されるまでは、西洋の言語で書かれた茶の湯の本はなく、あったのは雑誌の論文だけであった。イーダはこの他にも日本の焼き物や花についても書かれたノートを残している。花の本は彼女の死後四〇年して、彼女の孫によって出版された。
 イーダはへルマンと違い、日本をスウエーデンに紹介したい気持ちがあり、新聞にも日本の事をよく書いていた。夫の死後、彼女は帰国し、イエーテボリにあるお茶の輸入会社に勤め始めた。スウエーデン各地の学校やホールをまわり、日本の茶の文化について発表した。この時、点前も披露したと思われる。その後、イーダは民俗学博物館の館長と茶の輸入会社の社長と共に博物館の庭に茶室を建てることになる。また、当時の日本人の国連関係者の紹介で、王子製紙の社長であり日本瑞典協会会長であった藤原銀次郎もこの話に参加した。藤原が茶室を建て、スウエーデン側は運送料を持つことになった。一九三五年、茶室とその周りの町家や庭などが完成した。その後、一九六九年に焼失するが、八〇年に再建される。
 
 
東海例会
(平成十九年四月二十日)
 
「茶の湯の阿蘭陀展その後」                                 
                     西田宏子
『阿蘭陀陶』については、一九八八年に根津美術館で『茶陶の阿蘭陀』と題する展覧会を行ってから、すでに20年が過ぎようとしている。その間の新しい発見や展開を、ここで見るとともに、伝世品のあり方を考えてみることにした。茶の湯の道具として高い賞玩を受けてきた、「白雁香合」や「煙草葉文水指」 は、阿蘭陀とされるものの、その生産窯や生産時期、請来時期などは、現在もまだ明らかではない。二〇〇一年にイタリーの研究者によって、煙草葉文水指の生産窯はフランスのリヨン窯が、その可能性が高いと示されたが、制作技法が異なり、また文様の描き方も異なる点などから、確定にはいたらないと考えている。我が国では、全国各地から阿蘭陀陶の破片が出土し、その多くが水指の部分であることが明らかにされてきた。また、オランダを始めとするヨーロッパ各国の窯では、全くみられない青磁色の釉が施された陶片も出土し、我が国でのヨーロッパ陶器の受容に関しては、注文による場合が多かったことが、推測されるにいたった。阿蘭陀の請来時期を考えるために、同じ頃に中国や東南アジア諸国から請来された陶磁器との比較が役にたつのではないかと考えた。たとえば、古染付や安南染付に描かれた蜻蛉文がそれである。いずれも寛永頃を中心に注文によって焼かれ、請来されたものと考えられるもので、蜻蛉を主にして描かれた花鳥文などは、阿蘭陀にもそのまま見られるので、その注文の時期が寛永期頃ではないかと推測できる。
 
「名物裂」と明時代の出土染織
                     吉岡明美
 明より舶載された絹織物は、室町時代以降、唐絵の表装や茶入の仕覆に珍重されてきた。安土桃山時代から江戸時代後期にかけて、表装や名物茶入の仕覆に用いられた裂地には角龍金襴、織部緞子などそれぞれ個別の名称がつけられていき、やがて「名物裂」と総称されるようになる。近年、中国の明墓からは「名物裂」に共通する数種の織物が出土している。特に注目されるのは、万暦皇帝(一五六三〜一六二○)墓から出土した皇帝着用の角龍金襴帯である。皇帝専用とされる五爪の龍を角形の文様にした赤地金襴で、同種の金襴が玉澗筆「瀟湘八景図」の「遠浦帰帆図」(重文 徳川美術館蔵)「洞庭秋月図」(重文)「山市晴巒図」(重文 出光美術館蔵)の一文字・風帯に用いられている。さらに『天王寺屋会記』『宗湛日記』により、現存しない「煙寺晩鐘図」「平沙落雁図」も同様の表装であったと推察され、「瀟湘八景図」の内、六幅に万暦皇帝の帯と同じ金襴が用いられていたことになる(上下、中廻しの表装も六幅共通)。茶会記には、丹(赤)地角龍あるいは升龍金襴と記され、初出は永禄十年(一五六七)天王寺屋道叱の会である。すなわち万暦皇帝と同時期に皇帝専用の金襴が我国に渡り、唐絵名品の表装として日本でも用いられていたのである。また嘉靖十二年墓(一五三三)からは織部緞子と、万暦三十二年墓(一六○三)からは細川緞子と同種の絹織物が出土しており、名物裂緞子の製作時期を窺い知ることができる。今後のさらなる中国の発掘報告に期待したい。

 
近畿例会
(平成十九年三月九日)
 
「旗本茶人考―多賀左近常長と舟越伊予守永景についての基礎的考察―」
                     八尾嘉男
 近世期の武家の茶会記の中で多数名を見せる存在に旗本(徳川将軍の直属家臣団の内、一万石以下、御目見以上の家格をもつ者)がある。旗本には遠州流の門弟として茶人の系譜書に名を見せ、流派内随一の評価を受けて将軍の前で点茶を行なった者までいるが、不思議にこれまでほとんど触れられていない。
 本報告では古田織部・小堀遠州の門下とされる二人の旗本茶人、多賀左近常長と舟越伊予守永景について基礎的分析を行なった。
 旗本茶人の研究は、辞典類以外では遠州流茶道流儀誌『遠州』の小堀遠州の茶会を紹介した連載や小堀宗慶編『小堀遠州茶会記集成』などで略歴が触れられる程度でしかない。
 多賀左近常長(文禄元年〜明暦三年)は、佐々木源氏に関わりがあり、近江国多賀郡に由縁を持つ家を出自とし、祖父常則・父常直は羽柴秀長父子に仕えていたが、その後家康に召されて仕えている。多賀左近の大坂の陣までの居所は駿府か父の封地大和国であると考えられ、その時期に茶湯を学んだと思われる。『的伝茶会記』を編んだ稲垣休叟(延享元年〜文政二年)の茶会記集成書とされる大阪府立中之島図書館所蔵『旁求茶会記』の説を踏まえると、父の封地内にいたと考えた方がよいかも知れない。寛永四(一六二七)年に使番役に就任以降、とりわけ大御所秀忠が没した寛永九(一六三二)年からは多忙な職制であることを示すかのように度々任地に赴いている。使番役の内、主に西日本を担当した者であったと思われ、履歴からは行政能力の高さが推測できる。また、任地に赴く際は一度上方を経由していた事例が指摘できる。上方で遠州や他の在上方幕臣と連絡を取り、交流を図っていたのであろう。
 多賀左近は、茶人の系譜書では最初古田織部門下、織部横死後は小堀遠州門下になったとされる。だが、『旁求茶会記』の「小伝」には「多賀左近/名常長、佐々木家人、茶を佐久間・桑山の両家に学ふ」と記され、佐久間と桑山から学んだとされている。茶会は『旁求茶会記』巻二に二会が収められ、何れも伊丹屋宗不の『伊丹屋宗不筆記』を典拠としている。茶会の内容には系譜書で述べる遠州門下と一概に考えてよいのか疑問が残る点がある。それは片桐石州の師でもある桑山左近の形に近い、竹の茶具や禅僧の軸物などを用いている点である。そして、御室焼の使用からいえば、安直ではあるが、金森宗和の影響も考えられなくはない。金森宗和の茶会への多賀の参会は、管見の範囲では承応二(一六五三)年七月八日の一会しか見出せないが、谷晃氏の御教示によると、両者の親交はかなり深かったようである。他の史料では『徳川実紀』と『備前老人物語』が挙げられ、両者の記述を踏まえると、多賀左近は花生に秀でた茶人であったと考えられる。没後の評価には財団法人柿衞文庫所蔵有岡道瑞編『茶湯百亭百会之記』の北脇又蔵茶会での多賀左近作の茶杓の使用が挙げられる。これらの史料から見る限り、ある程度の評価は存命当時から受けていたと見た方が自然であろう。
 舟越伊予守永景(慶長二年〜寛文十年)は駿河国舟越に出自を持ち、淡路国を在地としていた家の生まれである。その故か、舟越家は豊臣秀吉への出仕以前は細川家や安宅冬康に仕えていた。しかし、文禄四(一五九五)年に羽柴秀次事件に連座して改易となり、秀吉没後に家康の執り成しによって再出仕を果したことから、以降は徳川家に仕えている。
 舟越伊予守は慶長九(一六〇四)年に家康に目見えを果たし、以後、元和二(一六一六)年までは駿府で小姓役を勤めていた。その間の慶長十六(一六一一)年に父景直の死去に伴って家督を継いだ際には封地である上方に赴いていたようで、それは寛文五(一六六五)年十一月八日の片桐石州と共に行なった献茶以外では唯一かつ初めて催したと思われる茶会の記録からわかる。慶長九(一六〇四)年以前の居所は、上方の舟越家の封地内にいたと考えるのが自然であろう。元和二(一六一六)年に江戸勤仕となって以降は封地のある上方に滞在することはなかったようで、寛永十(一六三三)年と翌年以外は関八州を出
たとする記録が見当たらず、江戸城や日光山を中心とする作事奉行職を歴任している。
 舟越伊予守は、系譜書では多賀左近と同様に最初古田織部門下、織部死後は小堀遠州門下になったとされる。『旁求茶会記』「小伝」の記述は虚説に拠った部分もあるが、『徳川実紀』寛文五(一六六五)年の将軍家綱への献茶の際の記述も踏まえると、系譜書の説の通り、遠州門下と考えてよいと思われる。寛文五年の献茶以外では、『徳川実紀』寛永十七(一六四〇)年十一月十六日条と『松屋会記』慶長十六(一六一一)年九月十九日の茶会がある。『徳川実紀』は酒井忠勝別邸への徳川家光の御成の際に多賀左近と共に炭手前と花手前を行なったとしている。後者は史料上では「舟越五郎右衛門殿」とあるが、舟越伊予守の父五郎右衛門景直は半年前に没しており、この会は永島福太郎氏の『茶道古典全集』での頭注通り、舟越永景の会と考えるべきであろう。舟越伊予守の通称「三郎四郎」と合致しないが、十五歳で家督を相続して半年後のことであり、記録者の松屋久好の中で三郎四郎という通称が認識できていなかったためと推測もできる。
 舟越伊予守の父景直は慶長十六(一六一一)年に没しており、遠州門下では当然なく、辞典類の記述通り古田織部門下であったと考えるべきである。ただ、舟越景直には千宗室監修・千宗員編『江岑宗左茶書』(一九九八年、主婦の友社)所収の「江岑咄之覚」に「辻堂の茶入」の逸話が残されており、織部門下のみと考えるなら晩年近くまで茶をしておらず、茶を嗜みだした直後に茶器の遣り取りを千少庵や織部と行なっていたことになる。 あくまで推測であるが、父景直は織部以前に誰かからある程度茶湯を学び、その後、織部門下となったと考えた方が自然であろう。
 舟越の茶自体は、初めてと考え得るものと晴れ舞台となる寛文五(一六六五)年の献茶しかわからないために、ほとんど推測ができない。だが、『松屋会記』正保五(一六四八)年二月八日の大倉源右衛門茶会や同年二月十九日大倉長右衛門茶会での記述、財団法人柿衞文庫所蔵有岡道瑞編『茶湯百亭百会之記』の有隣軒(鷹司輔信)茶会での記載を見る限り、好み物などが存在し、相当高い評価を受けていたであろうことがわかる。
 彼ら二人自身の検討は、史料が限られていることもあり、課題点や不明点が多い。しかし、今回の報告では検討を加えなかったが、彼らが小堀遠州や片桐石州の茶会に招かれた場合、個々にその茶会に招かれた意義付けができることが多い。それらの分析を行なうことで、徳川宗家直属の家臣である旗本が徳川政権を構成する大名茶人の茶会に招かれる側面についての検討が可能であろう。また、今回の報告中で触れた桑山宗仙は千道安門下とされる旗本で、宗仙から影響を受けた茶人が少なからず存在することが辞典類からうかがえる。宗仙と宗仙から影響を受けたとされる茶人達について検討していくことで、近世前
期における武家の中での千家茶道の取り込みについて考えることができると思われる。
 
例会のご案内 (略)
 
研究会のご案内 (略)
 
〇大会発表者の募集 (略)
 
後記 
     前号でもお知らせしましたが学会のホームページが更新されております。例会のご案内や研究会の開催などについても随時お知らせ致します。是非ホームページもご利用下さい。
     新役員役割分担が確定いたしましたので掲載させて頂きます。(略)